「正之」氏サイト中で、「M」と表示したページについて  「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページはサイト管理人(s_minaga)の作成したページではなく、岡山在住の妙善寺檀家である「正之」氏の作成したページです。
 ページ中に述べられるように、「正之」氏の家は不受不施です。

その「正之」氏はかって「不受不施」に関係したサイトを運営されていました。
そして、拙サイトには「正之」氏のサイトの全てのページにリンクさせていただいていました。
しかし、何らかの事情があったものと思われ、「正之」氏はサイトを閉鎖されました。

そのため「正之」氏のページが表示できなくなった訳ですが、「正之」氏のページをこのまま「消滅したまま」にするには余りに惜しい気がいたします。そこで「正之」氏のサイトにあったページを「独断」で拙サイトに復元させていただく処置を取らせていただきました。(2009/10/09:「正之」氏サイト復元)

 以上のような経緯で、拙サイトに「正之」氏サイトのページを復元させていただいております。
繰り返しになりますが、「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページが「正之:」氏作成のページです。

佛性院日奥聖人の隠れ墓を訪ねて


佛性院日奥聖人の隠れ墓を訪ねて
執筆者:まさゆき

 日奥聖人は、文禄四年の豊臣秀吉の千僧供養を拒否したあと、徳川家康との大坂城対論の後、慶長5年5月対馬へ流罪され、慶長17年赦免されて京都妙覚寺に復帰し、元和2年妙覚寺本坊に入る。
のち寛永7年2月の身池対論の結果、同年4月上意違背の罪により、再び対馬へ流罪となったが、既に日奥聖人は同年三月妙覚寺で死亡しており、死後流罪となり、遺体を幕府役人の付添で対馬へ流罪したという言い伝えもあるが、その真骨は未だに何処にあるのか判明していないのは残念なことである。




日奥聖人の隠れ墓全景

 


日奥聖人隠れ墓の右側面です

執筆者:まさゆき

下の画像は日奥聖人の隠れ墓の右側面です。
 ここには「安永八己亥三月十日」と刻まれています。
 碑文と云いこの祀り方と云い、厳しい弾圧の中の内信時代の厳しさが伝わってきます。
 明治九年四月の(1876)再興までの97年間の厳しい弾圧の中を良く保たれたものと感心します。


 

佛性院日奥聖人の墓石

左の墓石は日奥聖人の墓石です。
岡山県和気郡和気町益原の日蓮宗法泉寺の向い遥か向うの山の麓にヒッソリと祀られています。
正面に「中開佛奥上」と刻まれています。
 これは「中興開山佛性院日奥上人」のことです。

 
日奥聖人が遷化されたのは、寛永七庚申年(1630)三月十日ですが、この遷化のあとこの地の篤心の信者が、聖人遷化百五十遠忌を祈念して、安永八己亥年(1779)三月十日幕府に隠れてこの墓を建立したものと思われます。
 日奥の文字を隠して「中興開山佛性院日奥上人」を略して「中開佛奥上」と刻している。
 南無妙法蓮華經 合掌

2013/01/17s_minaga追加:
日奥上人については以下に関連の記述がある。
 →仏性院日奥上人