「正之」氏サイト中で、「M」と表示したページについて  「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページはサイト管理人(s_minaga)の作成したページではなく、岡山在住の妙善寺檀家である「正之」氏の作成したページです。
 ページ中に述べられるように、「正之」氏の家は不受不施です。

その「正之」氏はかって「不受不施」に関係したサイトを運営されていました。
そして、拙サイトには「正之」氏のサイトの全てのページにリンクさせていただいていました。
しかし、何らかの事情があったものと思われ、「正之」氏はサイトを閉鎖されました。

そのため「正之」氏のページが表示できなくなった訳ですが、「正之」氏のページをこのまま「消滅したまま」にするには余りに惜しい気がいたします。そこで「正之」氏のサイトにあったページを「独断」で拙サイトに復元させていただく処置を取らせていただきました。(2009/10/09:「正之」氏サイト復元)

 以上のような経緯で、拙サイトに「正之」氏サイトのページを復元させていただいております。
繰り返しになりますが、「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページが「正之:」氏作成のページです。

我が家のご本尊について…

左のご本尊は、我が家(三木正之)のご本尊です。
日蓮宗不受不施派 久遠院日然聖人と応智院日縁聖人の両聖人のご本尊の下半分の部分です。
拡大して見て下さい。

 この久遠院日然聖人と応智院日縁聖人のご本尊は、私が昭和三十二年頃独立に際し、母 静與が他の道具と一緒に「将来良く家庭で信心しなさい」と譲ってくれたご本尊です。
 当時はその有り難さが判りませんでした。
 両聖人は、宝暦三(1753)年八月十八日「天下諫暁」のため備中を発ち、江戸へ向かわれました。
 同年十一月二十三日、江戸寺社奉行所に天下諫暁のため出訴するに際し、同行した法立 源右エ門の信力増進のためこのご本尊を書き与えたものです。
 ご本尊の上端に傘のように横に「一心欲見佛」「不自惜身命」と書かれ、下端右に久遠院日然の署名と花押が記され、左に応智院日縁の署名と花押が書かれて、右に「宝暦三年癸酉冬 天下諫暁出場砌 江戸於」と記され、終わりに「法立 源右エ門 為信力増進」と授与書きもはっきりしています。
 両聖人はこの寺社奉行への出訴の後、直ちに揚屋牢に入牢され、久遠院日然聖人は翌宝暦四年二月頃、過酷な取り調べの結果であろう牢内で遷化されました。御年三十九歳でした。
 応智院日縁聖人のその後の牢内での様子は良く判りませんが、入牢時三十歳。三宅島を経て御蔵島へ流罪され、在島四十二年余、寛政八(1796)年一月十一日御蔵島で遷化。七十一歳でした。
 この両聖人のご本尊は、死生を超越して護法のため敢然と天下諫暁に赴かれた、両聖人が魂を墨に染めて書き記された絶筆ともいえる尊いご本尊であり、中心である正行「南無妙法蓮華經」の上左右に、如来寿量品第十六の一節である「一心欲見佛」「不自惜身命」と書かれた、この貴重なご本尊が、あの過酷な禁制(内信)時代百二十三年を含めて二百四十七年余も延々と伝えられてきたことは信じられない思いであります。
 この先祖から受け継いだ得難いご本尊に恥じぬよう一層の精進に励むよう心に誓っています。なお、両聖人から直接授与されたと思われる「法立 源右エ門」のその後の消息が不明なことが残念であります。日縁聖人の出身地の岡山市御津下田の真善庵講社中の方々に「法立 源右エ門」を知らないかと尋ねたのですが、墓碑も何も知る人はいませんでした。少しでも知る人は私のアドレスへお知らせ下さい。masa4225@celery.ocn.ne.jpです。宜しくお願いします。
 なお、両聖人の墓所は御蔵島の山上にあり、両聖人の墓石が並んであるとのことですが、御蔵島は伊豆七島でも絶海の孤島であり、空港もなく港湾整備も不十分で、八丈島からのヘリコプターしか便がなく中々行けないのが実情です。                         合掌                                         

◎久遠院日然聖人の経歴。
 字 玄清(源清)行法院日観師の弟子。宝暦四年二月二十六日揚屋牢で遷化。三十九歳。
 日然聖人が諫暁書に付した別副。
 「拙僧源清(日然)このたび言上いたし候意趣は、享保三年戊戌の年、友善日清(善行院日清)と申す僧、不受不施持法の者につき三宅へ流罪仰せつけられ候。その節、源清父清休 備前岡山に罷りあり、右友善に帰依し出家つかまつり候。享保十年乙巳年、父清休儀、江戸表にて入牢仰せつけられ、同年七月二十六日牢死仕り候。当年先師友善二十五回忌に罷りなり候間、師父の志を相継ぎ候いて別紙の趣、言上仕り候」と諫暁に至った経過がはっきり述べられています。
 現在、日蓮宗不受不施派 祖山 妙覚寺第三十一世となっています。          合掌

◎応智院日縁聖人の経歴。
 字 冠碩。母 江田氏の出。俗姓 河原氏。享保十一(1726)年備前宇甘東村下田に生まれる。
顕性院日幽に師事。のち久遠院日然に従う。大教庵先師。
 日然に従い、江戸寺社奉行に天下諫暁、御蔵島流罪。時に三十歳。
 応智院日縁聖人も諫暁に際しほぼ同様の経過を書いているが、「備前・備中・作州の間を流浪、唱題誦經つかまつり候いて罷りあり候」と自分がどの寺にも属さない独立の不受不施僧であることを誇っています。
 法難に際し二百余人の不受不施流僧の中で、自らも諫暁僧の一人として三宅島に流された、本妙院日珠聖人は、三宅島在島中数々の教えを島から備前に送り、この教団統一を指向する考えは、のち宣妙院日正聖人に引き継がれ、のちの不受不施公許につながっていったのですが、この日珠聖人が寛政五(1793)年九月三宅島へ流されることを知った日縁聖人は、親しい御蔵島の船頭や船主などを三宅島へ派遣し、日珠聖人の島での暮らしについて周到な配慮をさせたのであります。
 こののち寛政十年 本妙院日珠聖人は「応智院日縁聖人諷誦文」を著しこれに応えています。
 日縁聖人は流罪僧でありながら、幾度もの「内緒便(備前から各種物資を船で島に送る便)」での物資を島の倉庫に保管し、各島の不受不施流罪僧の生活の援助をしたと云われ、多くの御蔵島の島民から慕われていたことが判ります。
 日縁聖人の生地の岡山市御津下田には、内信時代の「真善庵」の建物が再建され、毎年二月二十九日(新暦)には、日縁聖人の命日の法要が行われ、講社中をはじめ付近の信徒が多数お参りされています。
 なお、応智院日縁聖人は、日蓮宗不受不施派 祖山妙覚寺第三十二世となっています。 合掌

参 考 出 典
昭和五十三年七月開明書院刊 長光徳和・妻鹿淳子著「日蓮宗不受不施派読史年表」
平成五年六月   小学館刊   奈良本辰也・高野 澄著 「忘れられた殉教者」
その他…